大阪府立第十三中学校として、1921(大正10)年に誕生し、翌1922年4月に豊能郡豊中村に開校された豊中中学の野球部は大正10年に創部されました。翌年8月1日に初の全国中等学校野球大会に出場して以来、太平洋戦争による中断期間はあるものの、80有余年の歴史を誇っています。
昭和3年に名古屋新聞主催の東海関西選抜野球大会に優勝した余勢をかって、甲子園の全国中等学校野球大会に出場した以外には全国レベルの活躍はありません。
しかし、部史を詳しく見てみますと、後述の如く数々の活躍があり、かなりのレベルには達していたことが推察されます。強豪私立高校の台頭が著しく、且つ参加校が全国一となったとはいえ、多くの公立高校が府の代表として甲子園で活躍している例もあり、再び豊中高校が全国大会に出場する日が一日も早く実現することを願い、その一助として野球部展を開催しました。
中学・高校時代夫々の活躍した年を中心に展示内容を纏めました。又、卒業後、大学・社会人として野球に係わり、発展にご尽力頂いた人々も掲載しました。不明にして間違っていること及び記載が不十分んところが多いと思います。その節はご指摘、及び資料の提供にご協力をお願いし、より充実した展示内容に致したくよろしくお願いします。
東西選抜野球大会に優勝 |
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名古屋新聞主催の東西選抜野球大会 昭和3年3月 鳴海球場で開催された。 名古屋側より中京商業、愛知一中、豊橋中学、名古屋商業の4チーム 関西より神戸二中、神港商業、浪華商業及び豊中中学の4チームで戦われた。 我が豊中中学は1回戦で名古屋商業に 10x-0で、準決勝決勝は夫々神港商業、愛知一中に2-0、5-2で勝ち、優勝した。 |
28校が参加した第14回大会において豊中中学は 2回戦 10- 0 桃山中 3回戦 7- 0 高津中 準決勝 2- 1 市岡中 決勝 7- 1 北野中 で優勝。 甲子園へ勝ち名乗りをあげた。 |
(写真をクリックし、適当な大きさに拡大して、新聞記事をお読みください。)
(上)豊中中学 (下)北海中学 |
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試合前夜 宿舎で寛ぐ、豊中選手 |
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全員を激励する高見捕手 |
豊陵会報 第9号(昭和44年11月1日)より
8 | 西沢義文 | 5年生 |
6 | 鳥居正一郎 | 4年生 |
2 | 高尾正久 | 5年生 |
3 | 西畑 準 | 4年生 |
1 | 門田恒夫 | 5年生 |
4 | 武田稔彦 | 5年生 |
7 | 一色 勉 | 4年生 |
9 | 山本浩蔵 | 3年生 |
5 | 太田貞一 | 5年生 |
補欠 | 岡田正治 | 4年生 |
土井正治 | 4年生 | |
高原 怒 | 2年生 | |
東沢 弘 | 2年生 | |
マネ | 尾崎徳太郎 | 3年生 |
先輩 | 西沢善弘 | 中1卒 |
小林米三 | 中2卒 | |
鳥井吉太郎 | 中2卒 | |
内村緑哉 | 中2卒 | |
竹永昭義 | 中3卒 |
その昔伝統ある府立市岡中学と私立明星商業は2−1の割合で優勝の栄冠を分かち合っていた名門校だったが、昭和元年には浪商、昭和2年には府立一中の北野が大阪代表となった。 昭和3年にはこれらの強豪をしり目に産声をあげて、わずか5年にして甲子園の晴れの舞台をふんだ時は文字通り全校あげての大騒ぎとなり、林校長が先頭に立って甲子園に乗り込み、大鉄傘をゆるがしたが戦い利あらず北海道代表の北海中学に延長11回のすえ7対6で惜敗し、一回戦で姿を消してしまった。 この第14回全国大会の優勝校の松本商業にはその春3対1で敗れ、準優勝校の平安中学には1勝1敗の好成績をあげて衆目を集めダークホース的存在と好評を得ていたので戦前の一般の予想では豊中が楽勝するであろうとのうわさが高かったが、初陣の情けなさのジンクス通りの結果となった。 しかし、昭和3年8月12日の大会開会式8月15日の敗戦経過など走馬灯の如く眼前に彷彿としてくる。 特に夏の甲子園大会の開催中は往時を偲び名状し難い恍惚境に迷入する次第である。
大阪予選の寝屋川球場における準優勝戦で宿敵強豪の市岡中学を2A対1で、優勝戦では前年の優勝校、北野中学を7対1で撃破して優勝の感激の場面は生涯忘れられない。
「ローマは一日にして成らず」されど誕生5年で甲子園へ、強豪をなぎ倒した栄光の野球部の陰には、野球部長の斉藤一雄、武田国彦、多田美仲、松浦孝範の諸先生の監督、先輩としては僕の兄、小林氏たちの指導、学友、父兄の応援等の絶大なバックアップの好環境と野球部員の強固なチームワークと優勝達成への猛練習、並々ならぬ集団的努力の総合結晶としての栄光の道であった。
毎日午前5時半〜午前7時半、打撃練習、放課後日没まで大毎球団から高浜益雄コーチャーと緒先輩の協力による本格的猛訓練、月明下の走塁、スライディング、降雨時の雨天体操場での打撃、カーブ(軟式)のバッティング練習等昼夜兼行の徹底的野球生活の二ケ月半合宿当初ホームシックの若手選手のエピソードなど没我的野球技練磨の全盛時代の体験は懐かしく思い出される。
次に昭和2年秋府下の選抜野球大会で初優勝の感激、昭和3年春の名古屋新聞主催の近畿選抜野球大会に招かれて遠征し、桶狭間の古戦場にあった鳴海球場で優勝した体験等黄金時代は懐かしい思い出となる。
豊陵新聞・豊陵会報・豊陵記念誌を彩るOB |
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豊陵新聞のシリーズ物として、”豊陵登壇”、豊陵会報には”豊陵の人”"豊陵を彩る人々”があり、各界で活躍されている卒業生を取り上げています。 その中から、小林米三(中2)、内村緑哉(中2)、西沢義文(中4)、中西悠四(中20)、山下達雄(中23)、三笠洋一(中23)の諸氏を紹介しました。 小林米三 (中2) 昭和初期に活躍した野球部員。阪急電車創始者、小林一三氏長男。元阪急電鉄社長 内村緑哉 (中 2) 昭和初期に活躍した野球部員。宝塚歌劇演出家 中西祐四 (中20) 豊中中時代2年から4年間レギュラー、豊中中学コーチ、審判として甲子園にしばしば出場 山下達雄 (中20) 初優勝当時の阪急ブレーブス・マネージャー 三笠洋一 (中23) 東大野球部、法政大から3勝。全国制覇時代の釜石ラグビー部長(豊中中時代は陸上部) |
第18回大会 参加校 33 優勝 八尾中
昭和21年7月18日(全国大会復活第1年)
終戦直後で、正式には野球部は未だ発足せず、豊中高校野球部関係者の若手が寄り集まって、愛球会の名で練習を始めた。
後列左より 村西 進 柴田渥美 倉賀野 務 酒井和彦 今子繰男 保寿 昭 野口 豪
中列左より 片木泰三 片岡政之 梛 三郎 松浦先生 安積猛夫 中川邦善 ?
前列左より 斎藤 健 島津 晋 大野栄一 瀧島弥雄 山下達雄 並川厚二郎 中西コーチ
第29回大会 参加校 79 優勝 浪華商
3回戦 | 4−3 | 市岡中 |
4回戦 | 6−3 | 富田林中 |
5回戦 | 12−2 | 生野工 |
6回戦 | 1−0 | 香里中 |
準決勝 | 1−2 | 茨木中 |
昭和22年メンバー
P片木、LF島津、2B渡辺、SS月山、RF酒井、CF山下 3B三野、松浦先生、 山田先生、C片岡
昭和25(1950)年・第32回大会
市岡に逆転されベスト16どまり
後列左より3谷口、3安田、5能見、3小山、3岸部、3高本、3今子、3保寿、1片木C、3木梨子、2伊奈C、4白藤、3柴田、4和田、3倉賀野、4増田
前列左より5奥田、5野口、5岸田、4和田、5小関、2大嶋C、5永田、
5本田、5百田、5吉田
岸部投手を擁し、夏は4回戦で市岡中に敗れるも、秋の近畿大会大阪府予選では、決勝まで駒を進めた。
然しながら、近畿大会には何故か出場出来なかった。
高2期 大嶋善樹氏 制作色紙 |
1回戦11-1西成(6回コールド) 2回戦 3-1北野 3回戦 3-1泉陽 4回戦 1-0羽曳野 5回戦 2-14近大付属(6回コールド)
(詳しい戦跡は画像をクリ ックして下さい。)
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豊中、寝屋川、藤井寺、大阪球場 | 日生、住江、久宝寺、中もず、万博 | 大会を支える新しい球場 |
全国中等学校野球大会の歌
作詞者・福武周夫さん
前列左より 久保田、 門脇、杉山、高橋、峰雪、山本
中列左より 岩宮M、宮澤、 松森、 小路、森田、上薗、鈴木、佐藤M
前列左より 尾越M、山本、 高橋、 鈴木、早水、石野
将来のご活躍、ご発展を期待します。
在校生の応援も宜しくおねがいします。
後列 神山先生、佐野先生、天野先生、岸本先生、升方M、小須田M
前列 松野一塁手、上田投手、島田遊撃手、平尾二塁手、平井捕手