晴れ姿の豊中球場入り口 | 球史ここに始まる 始球式レリーフ | 朝日新聞 社告 |
豊中球場メモリアルパーク記念碑
箕面有馬電鉄(現阪急)沿線のこの球場は、広さ六千坪(約19,800u)で"今からみれば、中学校の運動場にヒゲを生やした程度の粗末なものだが、そのころでは関西一、いや日本一を誇るグランドであった”という。 周囲に天幕、よしず屋根をめぐらして”涼しく観戦”に心を配って第一、第二回大会が挙行された。
第一戦の火ぶた 創設に当り定められた「試合前後の礼式」にのっとりボックスを挟み挨拶する鳥取中(右側)対広島中(左側) | 球史ここに始まる 朝日新聞村山龍平社長始球式荒木審判委員長、平岡副審判長、鳥取中鹿田投手 |
熱狂する観衆 (大正5年) |
グランドにへたりこんで、フレー・フレー 秋田中に声援を送る奥羽六県人会の面々 | 豊中球場スコアボード 第二回大会第二回戦・香川商業ー慶応普通部 |
優勝旗を中心に退場する慶応普通部チームを取巻く大観衆。斜陽を浴びるその人海が、翌年から鳴尾開催に踏切らせた原動力であった。 |
六年ぶりに大会旗 球児のメッカ甲子園が米軍に使われていたので、復活第一回の二十八回大会(昭和21年)は阪急西宮球場で中絶以来六年ぶりに開かれた。 | |
メッカに還る 懐かしい甲子園へ再び全国の球児を迎えたのは昭和二十二年の第二十九回大会。 あの大屋根は何に変ってしまったのだろう。 遠く見える六甲の山々も荒らされ放題。 しかし伝統の球場でまた純粋のプレーにひたれることは選手にも関係者にも、何にも優る大きな喜びだった。 |
昭和30年 入場式 朝日機「そよかぜ」より
昭和34年 大阪大会開会式
第74回〜 (平成4年以後〜)
20世紀の大会を盛り上げた懐かしい大阪球場
(両翼 91.4m 中堅 115.8m)