今回の「滑空部展」の企画に賛同され、関係写真のほか、展示しているグライダーの設計図の提供・製作への助言等にご懇篤な協力を頂いた中学18回生で滑空部員であった杉野 博氏は、15年10月7日亡くなられました。 この展示を楽しみにしておられた同氏への哀悼の意を此処に表します。
昭和12年(1937)末 豊中中学校生徒数名が尼崎グライダー倶楽部で練習開始
(中学14回江島、小山、中16回堀江、篠原、垂谷の各氏ら)
昭和13年8月1日〜27日 全日本学生グライダー訓練大会
江島治、小山扇三、篠原甲子郎、高貴敏明各氏参加
部員 39名延べ飛行回数400回、平均搭乗回数10数回
昭和15年 第11回明治神宮国民体育大会 滑空訓練演技式 大阪府代表として出場
昭和17年8月 府下中等学校生徒夏期信太山第一次合同滑空訓練講習会参加
三級滑空士試験合格者:杉野 博・佐野清常・瀬川義美・竹内省三・
大矢良吾の各氏(5年生) 当時の部員は30名
昭和18年5月 府下中等学校生徒夏期信太山第三次合同滑空訓練講習会参加
おもな訓練場所は大阪空港、浪速高校(現大阪大学)、服部緑地滑空場
昭和14年以降、校内体育大会で滑空演技を行う
昭和14年7月19日
この日写真に見える1号機に加えて2号機も命名された(1号機・ 2号機と今から考えるとセンスのない名前と言う声もある)
昭和14年7月20日 大阪朝日新聞 府立豊中中学ではこんど校友会の手で国産グライダー二機を購入、 滑空熱に燃え立つ生徒の滑空を行うことになり、十九日午前十時二十分 同校校庭において亀田知事代理・・・・・
本校校舎前におかれた豊中中学1号機 (昭和14年7月)
飛び上がった豊中中学3号機 前方の生徒さん 危ないよ!
下方に白くゴムの曳索が見える
右端に見える白い紐は、グライダーを引っ張るゴムの曳索 (初級機は機首に取り付けた2本のゴムの索を部員が引っ張り その弾力を利用して飛び上がった)
操縦士の緊張した顔つき
ゴム索に引かれた機体が空中に飛び上がった瞬間
高度はせいぜい3メートル位か ゴム索を引いた生徒が見上げている
九帝というのは、当時の九州帝国大学の略称で、九帝の2教授の設計したものである。 杉野氏のアドバイスどおり原寸の1/10で製作した。 (写真にある豊中中学1・2号機とは若干異なる。 同じ設計図の入手を計ったが果せなかった)
豊中中学2号機
高度約5メートル 大勢の生徒の見守る中、運動場の北東隅から南西に向かって飛び上がった
朝日改五型
豊中中学3号機(文部省型)に乗って、いざ飛びたたん!
機首から左方向に白くゴムの曳索が見える
滑空部上級生が記念撮影 ○ ○ 瀬川 杉野 佐野 竹内
滑空部員全員集合(裸の猛者もいる)
ゴムのロープが切れて、失敗することもあった。 人の力で飛ばすのは難しい
杉野氏 竹内氏
府立豊中中学校(大阪)の参加者を赤枠内に示す
格納出来ないグライダーは写真のように 分解して格納した ○、杉野、佐野、○
昭和15年11月3日付大阪朝日新聞記事
大会が終り夜行列車で帰阪した一行は翌朝学校へ戻って玄関前で記念撮影
昭和15年の明治神宮国民体育大会参加章は戦時中のため 金属は使えなかった この材質は?