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豊陵資料室だよりN

第15号 09年春の号

バレーボールとサッカー

      第6回「クラブ特別展」  会期を変更して開催

第六回クラブ展は「サッカー部」と「バレー部」である。 昨年までは二月末の卒業式 を目途に開いていたが、三月中旬の入学試験期間は校内立入が禁止されるので今年度から 三月下旬開催に変更した。 終了は例年通り七月末。

バレーボール部


 大正15年「藍排部」として発足したが、藍球(現在のバスケットボール)が全国準優勝という活躍のせいもあって排球部門の記録は全く残っていない。
 排球部として独立したのは昭和8年(1933)。 明治神宮大会大阪予選で二度の準優勝という記録はあるが、その詳細は不明。 ただ豊中中学時代刮目するような活躍はないまま、戦時中、敵性スポーツということで廃部になった。
 戦後復活し、女子のクラブも誕生したが、男女ともコーチがいるわけでなく生徒間の創意工夫で練習し、国体予選などでは好成績も収めているが、戦中戦後の時代、これらの活躍を示す写真をはじめとする資料は残念ながらほとんど見当たらない。
 そこで節目の活躍を中心に多角的に男女のクラブ史を追ってみた。 女子は昭和54年(1979)に近畿大会出場を果たしている。 男子も昭和57年には府立高校大会で優勝。 この活躍については高32期有賀(西川)由利子さん、高35期志柿昌也さんを中心に資料を提供していただいた。
 また異色の話題として今も続くOBによる夏合宿。 高39期桑原善博さんの協力を得た。 
 少し派手なユニフォームはオリンピック選手に憧れて高41期の女子が作った。 彼女たちはその当時の全国的実力校高槻南によって夢は絶たれたが、建部さん中心のチームワークは今回の資料探しに生きていた。 
 最近では06年以降男子が健闘、一部に昇格し春の高校大会では三年連続ベスト16。
 どの種目も同様であるが、私学優位の時代にあって公立高校の意地が見える。
 
 今回のバレーボール展。 あまり知られていない過去の活躍が現役部員の刺激になれば幸いである。

サッカー部(蹴球部)

 創設は大正10年(1921)12月20日、本校の運動部では水泳部に次いで古い歴史を持つ。
 しかし、戦績はなぜか芳しくなく、公式戦の初勝利は大正15年6月18日まで待たなければならず、昭和時代の記録を調べても特筆すべきものは見当たらない。 ただ昭和初期、中等学校間の対校試合だけでなく、社会人の阪急や大阪第八連隊(陸軍部隊)との大戦が組まれているのは、他の運動部にはあまり見られない。
 高校になっても十数年は部員も10人未満、クラブ予算もあまりつかず、肩身の狭い思いで練習をしていたと当時の部員は言う。 それだけにこの時代までの資料は殆ど遺されていない。

昭和50年第27回近畿大会開会式
選手宣誓は豊高藤井良一主将

 しかし人材の揃った高校17期生の入学に合わせるように赴任してこられた梅本修平先生の指導が、豊中高校サカー第一次の開花期を迎えた。 昭和38年(1963)には夏の国体予選準々決勝、秋の全国高校サッカー予選では準決勝まで進出(いずれも工大付高に苦杯)。 続く高18・19期生もこの流れを引継ぎ、昭和41年の新人大会では決勝まで駒を進めて明星高に惜しくも敗れた。
 サッカー部第二次開花期は昭和49年(1974)度。 近畿大会に出場、堂々3位の栄誉を獲得した。 しかもこの年大阪府優秀選手に高28期藤井良一さん・斉藤啓全さんの二人が選ばれている。
 現在豊高サッカー部顧問の高32期野元誠二さんはこの上昇気流の中で入学、昭和53年度には近畿大会出場、翌54年度は大阪高体連から年間優秀選手に選ばれた。 高33期大澤徹也さんも55年度の年間優秀選手であり、しかも国体の大阪チームにも推薦され出場している。 この他国体推薦選手には高36期塚本英さんの名もみえる。
 なおサッカー部に関しては恒例になっている「正月の初蹴り」を紹介したい。 高19期関沢愛さん・鳥山明夫さんが発起人となって立ち上げたOB会の結成行事として行われた昭和40年元旦の「対抗戦」。 これが今日まで続いている。 毎年多数のOBが参加し現役とも繋がるという。(現役は元旦ではなく1月2日開催) 
 現役クラブは、かっては部員集めに四苦八苦した時代とは違い、グランドには常に多くのサッカー部員の姿が見える。 顧問野元先生に加え、OBの高23期桑畑健二先生も指導され、その練習姿勢には常に府下の上位を目指す意気込みが感じられる。
 

(豊陵資料室・浅井由彦)