豊陵資料室だよりE__________
第6号 2004年秋の号
第二回クラブ特別展
「送球(ハンド)」「薙刀」「新聞」
今年も前年に引き続いて開催される「クラブ特別展」に今回決定したクラブの横顔を紹介する。
「送球(ハンドボール)」は豊中中学時代二度の全国制覇を果たし、 豊中高校時代には男子は八回連続、女子は三回国民体育大会に出場するなど、
「送球豊中」の名を全国的に知らしめた強豪、 かっての栄光にエールを送る意味から「クラブ展」に登場する。
「薙刀部」は昭和三十五年創部の若いクラブであるが、全国大会にも三度出場、 府下でも個人の部で活躍した選手も数多い。現在でも練習前の道場の拭き掃除に始まり、
古武道の作法を身につけようと真面目な活動を続けている歴史を紹介したい。
「新聞部」正式には豊陵新聞編集局というが、高校発足当時の学校新聞ブームの先端を走り、学校の報道機関としてだけでなく、 生徒の文化的情操の育成にも力を尽した。昭和二十五年には全国コンクール八位に入賞するなど高水準の新聞にスポットを当てる。
平成五年の208号以来途絶えている「豊陵新聞」復刊のきっかけともなればとOB諸氏はクラブ展に期待している。
会場は前回同様、六号館102号教室、期間は平成十六年十二月始から平成十七年七月末まで。
六十二年前の賞状に豊中中学時代を偲ぶ中西氏
五月中旬、中十九回生中西三郎氏は、ご本人が寄贈し資料室に展示されている賞状の前にじっと佇み、六十二年前の記憶を甦らせていた。
『大阪府中学学校報国団弓道班春季大会、一部個人の部三位』 の賞状、本館北側、現在の自転車置場のあたりにあった弓道で毎日のように弓をひいていた日々が昨日の出来事のように思い浮かんで来る、といわれる。
昭和十七年十二月発刊の『誠之』第十九号(旧『校友会誌』改題)の巻頭写真ページには、この年の秋にも府大会で優勝した弓道部員が、初の全国制覇を果した送球部員と並んで載せらているが、中西氏にとっての栄光の昭和十七年への追憶は深く重いようである。
前列左端中西氏
時代がどれだけ流れても心はかっての居場所に残されている。それが母校というものなのかもしれない。中西氏はそのように卒業生の心を代弁した。
服部緑地など練習場所を求め、同好会ゆえに財政援助も得られなかったので生徒がアルバイトで購入したというホルンの写真も今は思い出という「吹奏楽」のコーナーで若い
エネルギーが溢れている。卒業後も楽器とは離れられない若いOB・OGの活躍ぶりも一角を飾った。
校歌あれこれ
資料室では当時四十九歳であった山田耕作氏が歌う旧制豊中中学校校歌を聞くことができる。
昭和十年校歌制定時にコロンビアレコード社によって作製され販売されたものである。
今回、山田竜三(高3)和津子(高6)夫妻が、和津子氏の兄、故高橋衛二氏(中十六回)の所有であるこのレコードの寄贈を受け、 須藤一夫氏(高3)に依頼してCD盤を作成、寄贈された。
展示品を見ながら、山田氏の肉声に耳を傾けている人の姿も時に見受ける。 豊中中学の校歌は、古い学校の、どちらかというと荘重な感覚の校歌にはない斬新さがあり、
若い息吹きを感じさせる。軍国主義化しつつある当時の風潮の中でよくこのような名曲ともいわれる校歌が出来上ったものと思う、 と話していた古い卒業生がいた。
本校における校歌レコードの作製は更に続く。昭和五十四年創立六十周年を機に、ボニージャックスが吹き込んだEP盤(俗にいうドーナツ盤)が作られた。
(ボニージャックスは八十周年の記念式典でも美しい歌声を披露している)。
時代は更に下って現在はCD時代。高室光博氏(高2、資料室部員)の手により、過去のSP盤EP盤を合わせてCD化した。 旧中学そして高校中期辺りまでの同窓会では校歌を斉唱してお開きにする場合が多いので、活用出来ればという願いがある。
(詳細については資料室へ連絡頂きたい)
昭和末期頃の卒業生からはこうした校歌に対する愛着が薄れていると聞く。昭和初期、我が国では最高のコンビといわれた北原白秋・山田耕作の校歌は本校の誇りの一つとされて来た。
柳川にある「白秋記念館」には関西学院大学の校歌と並んで本校の校歌が展示されている。若い層の卒業生にもう一度、我が校歌を見直してもらいたい。
爆弾片の保存策 アクリルケースへ収納
高8期東(太田)敦子さんの手によってオブジェ風にアレンジされて展示していた爆弾片が、資料室の一隅に展示されていた。
数年前まで半世紀の間土中に眠っていたものである。鉄製のため酸化が予想以上に早く進行しボロボロと剥離が進んでいるので、 少しでも永い保存をと乾燥剤とともにアクリルケースに収納した。
この爆弾片は旧制豊中中学の永く語り継ぐべき戦争悲話を思い起こさせる「物」である。 昭和二十年六月七日の豊中空襲、神崎川右岸、現在の豊南町にあった三国航空機材に投下された爆弾が、この工場に動員されていた宮川先生を始めとする八名の生徒の生命を奪った。
(資料室はこれらの方々の写真を爆弾片横に掲示しているが、他にも大阪への空襲で七名の生徒が犠牲になっており、この数字は府下中学校の中では最大である。)
貴重な戦争遺物が資料室に ある経緯をご説明しておこう。中二十三回井上長氏(故人)は工場の近くに住んでいた。 数年前、自宅の畑を掘っていてたまたまこれを見付けた。そしてこの種の爆弾が工場に投下され豊中中学の悲劇を生んだのだと確信した。
豊陵資料室が作られるという話を聞いて爆弾片を遺すべきと寄贈を思い立ち、それを資料室が受けいれたのである。
おそらく五十キロ爆弾(爆体長七十六糎・直径二十糎)の弾片と推定される。
昭和五十五年刊行された豊中一中郷土研究クラブの「豊中空襲」から転載
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