展示ケースからP

今はない「しない競技」

写真をみると一見フェンシングの面のように見えるのは「しない競技」で使用した面である。 敗戦によって軍国主義の象徴と考えられた剣道が、昭和二十年十一月の次官通達によって禁止されてから八年、昭和二十八年学校体育として認められ、戦前は「日本一の剣道中学校」としての名声をほしいままにしていた本校の剣道部が復活した。
「剣道」が「しない競技」に変わっても豊高の実力は衰えることなく昭和二十八年には府民大会で優勝、国体には昭和二十九年と共に連続出場を決めている。 主力は高七期の今西・加藤・土肥・水原。 白シャツに白のトレーニングパンツで面・胴・小手からなるフエンシングに近いスタイルで競技に臨んだ。
展示されている面は平成十九年資料室特別展の際、加藤勝之氏の夫人がご主人の遺品を寄贈されたもの。
 また今西春禎氏寄贈のシナイは「袋シナイ」長さ百十五センチ(かっての三尺八寸の竹刀と同じ長さ)握り手は丸い竹。 手元から四ツ割、ヤツ割、十六割となっていて打たれても竹刀ほど痛くなかった。 鍔はゴムで軟らかい。
 その当時一本二四○円だが、三日も稽古で使うと駄目になったという。
 大阪府高体連では昭和二十九年から剣道が復活し、しない、剣道の二種目の大会が行われたが、昭和三十二年から「しない競技部」が「剣道部」と改称、以後「しない競技」は姿を消した。