展示風景 裏面
松岡藤太郎先生は三重県のご出身で豊中高校のスタート時 (大正10年4月)から本校の教員として教壇に立っておられました。 昭和15年に退職されましたので、豊中中学校の卒業生で、中学 19回生までの方々が先生の謦咳(けいがい)に接する[直接お目に かかる]ことが出来たのではないでしょうか。 昨年秋、大戦中に疎開させてまで先生が大切に保存しておられた品々 70点が曾孫松岡信明氏から、当豊陵会資料室に寄贈されました。 それは、中学校の卒業証書に始まり、その後の先生の足跡を示す貴重 な品々でした。 特に異動辞令、給料・賞与などの辞令が、教職一筋に 生きてこられた一人の先生のものであるという点で得がたいものと考え られます。 大正から昭和へと日本が大きく転換していった時代を過ご された学校のの先生の貴重な資料です。 先生の豊中中学時代を知る先輩の一人は、大変謹厳な先生であり、 儀式の日には校長先生の後ろから「勅語」を奉持して歩かれたのを記憶 しているとのことでした。 以下に、先生の足跡を展示しました。昔の先生とはこんな風に勉強され 転勤されたのかを知ってほしいと思います。 なお、先生のご長男 故紀明氏は豊中中学15回生でした。
正装の松岡先生 英語の授業風景
(中7回生、昭和7年卒の卒業写真より)
先生の卒業証書と免許状
先生は1907年(明治40年)に三重県立第3中学校を卒業されました。 この学校は現在の三重県立上野高等学校です。
ここで先生は3年生から5年生までの3年間連続で『特待生』の待遇を受けておられます。 特待生と言うのは授業料を免除されますが、ここに掲げる命令書にもあるように、学力優秀・品行方正であることが必要です。 きっと非常に真面目で勉強家だったのでしょう。
中学校卒業後、先生は、広島高等師範学校に入学されました。 高等師範学校と言うのは、師範学校・中学校・女学校の教員である中等教員を養成するために1886年(明治19年)東京に設置されました。 その後、1902年(明治39年)に広島にも設置され、以来東京高等師範学校と並んで、日本の中等教員養成の双璧なる学校です。
当時の高等師範学校は、予科1年、本科3年、研究科1年制でした。
先生は1912年(明治45年)3月、同校本科を卒業しておられます。
先生の教員免許状をご覧ください。 修身科・英語科の免許証ですが、裏面には『日本帝国臣民ニアラザル者ニ對シテハ本免許状ハ私立学校ニ就イテノミ有効トナス』と記載されています。 これは当時ならではのことと思われます。 今の免許状ではどうなっているのでしょうか。
その後、1929年8月(昭和4年)文部省の修身・公民科の教員講習を受けられます。 この年の4月、文部省は「学生の思想問題に関連し、京都・東北・九州各帝国大学、東京・広島両文理大学に新講座設置」を指令しました。 この時期、先生がどのような講習を受けられたのか、お尋ねしたい気がします。
松岡先生の転勤命令
終戦前、1945年(昭和20年)までは、国家公務員は『天皇の官吏』であった。
これは中等学校の先生も同じで、教員に採用されると、文部省(現在の文部科学省)に所属し、先生方の辞令もすべて、文部大臣の命令によるものだった。
したがって、松岡先生が熊本県、三重県などの学校に赴任されたのも、文部省すなわち国から各府県への出向であり、県内の各学校に赴任するのはすべて出向先の各府県の指示であった。
辞令の文言に『出向』と書かれているのはこんな理由からである。
熊本県立第一中学校への赴任 最初の赴任先「県立熊本第一中学校」は現在の「県立熊本高等学校」である。 1900年県立中学第二済々黌からスタートした歴史ある中学校である。 |
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三重県立第一中学校への赴任 ついで、先生が赴任されたのは「三重県立第一中学校」で、この中学校は旧津藩の藩校跡に開校した「津中学校」がめまりで、県立津中学校から現在の津高等学校になる。 |
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和歌山県立海草中学校への赴任 この学校は明治37年(1904)県立の海草農林学校が母体で、現在の「和歌山県立向高等学校(中高一貫校)」である。 2年間の海草中学校勤務の後、大阪府に出向される。 |
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大阪府立生野中学校への赴任 1921年(大正10年)4月1日付であった。 このとき文部省では、大阪に十三番目となる新しい中学校(豊中中学校)の設立準備を進めており、翌大正11年4月1日付で開校する旨の文部大臣認可が下りていた。 したがって、松岡先生の生野中学への赴任は準備校の教員としてである。 そのため、赴任されると新1年生B組を担任された。 そして、1922年(大正11年)正式の豊中中学校教諭として教壇にたたれることになる。 |
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高等官5等、正6位とは? ここに「高等官5等に任ず」と「正6位に叙す」の2枚の辞令があるが、高等官とは官吏・・公務員の等級を示すもので、数字が少なくなるほど上級職位を示す(戦前の制度)。 中学校の先生は概ね高等官5等〜6等であったと思われる。 また、正6位は位階を示す。 上から正1位、従1位、正2位、従2位・・と従8位まであった。 これは大宝律令以来の官位の序列である。 |
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校友会運動部の松岡部長と剣道部員たち (中7回生、昭和7年卒の卒業写真より) |
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職員全員の集合写真 (中7回生、昭和7年卒の卒業写真より) 中央の校長先生と隣の松岡先生だけがシルクハットを持っておられる。 これから判断すると、松岡先生は校長に次ぐ立場におられた? 卒業写真のせいか、殆どの先生が礼服を着ておられる。 |
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松岡先生の家族 | |
松岡先生の家族 |