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展示ケースからD

一片の通知書から豊中空襲の悲劇をいつまでも心に留めたい


 今回は戦争末期の豊陵史のなかで忘れてはならない悲しい記録資料を紹介したい。

昭和19年7月11日付、色あせたB5版のワラ半紙、ガリ版刷りの印刷物がある。
元津千尋豊中中学校長から保護者に宛てた通知書である。
文面を要約すると、
戦争状態の緊迫にともない、生産と教育を一体化させるべく 「学徒勤労動員実施要項」に基づいて大阪府学務課よりの出動命令を各中学校が受けたので、 学徒通年動員を実施する、
とある。 その上で、豊中中学に割り当てられた工場名と添付の監督責任教員名が手書きされている通知書であった。 四年生、五年生はこの通知書によって授業を中断していくつかの軍需工場に分かれて配属され戦力増強の勤労戦士となったのである。

しかし、こうして各工場に配置された生徒の中には一年後その運命を大きく左右する集団もあった。 資料室の一角、爆弾片が置かれているそばのパネルには、付添い教員宮 川先生を中心に八人の生徒の写真が揚げられている。
三国航空機材(現豊中市豊南町)を動員先と指定された先生と生徒達は、昭和20年6月7日、その工場で空襲に遭遇し、 投下された直撃弾の犠牲となって尊い生命を落としたのである。 この小さなハンピラの通知書は、悲しむべき戦争の傷跡を後世に遺したというべきか。

資料室では永く冥福を祈り、こうした惨禍を後世に伝えるべく写真と爆弾片を並べている。
(なお、この爆弾片はかつての同工場の近くに住んでいた中23回故井上長氏の住居地から平成になって掘り 出された物であり資料室が寄贈を受けた)。

 私共はこの一片の通知書から後世代に平和への願望をいつまでも託したい。

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